鳥羽・伏見の戦いの概要
大変興味があります。
鳥羽・伏見の戦いのまじめな話。実は知らないことばっかりでした。
慶応3年末、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの働きで発せられた王政復古の大号令により、大坂に退いていた前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地が命ぜられた。さらに薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行う(庄内藩の江戸薩摩藩邸焼き討ち事件)と、慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は軍事的な京の封鎖を試みた。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。
慶応4年正月3日の夕方に、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽での銃声が聞こえると伏見でも衝突、戦端が開かれた。鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、伏見では奉行所付近で佐久間近江守信久や窪田備前守鎮章ら幕将の率いる幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍の小銃火力に敗れた。
5日、淀藩への入城を拒絶された(下記参照)幕府軍は淀千両松に布陣するも惨敗。なお、この戦闘の最中、新選組結成時からの主要幹部隊士の一人であった井上源三郎が戦死するが、彼の甥である井上泰助が源三郎の首を持ち帰ろうとしたものの、あまりの重さのために仲間の隊士から諭されて、戦場の近くの寺院の境内に源三郎の首を埋葬したというエピソードが伝わっている。
幕府軍は敗走に次ぐ敗走の末、石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて最後の決戦に挑む。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方歳三率いる新撰組の主力などを擁する幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ幕府軍にあった。しかし、対岸の大山崎を守護する津藩の裏切り(下記参照)に遭い、思いもかけない西側からの集中砲火を喰らった幕府軍は総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷(のち死亡)、新撰組諸士調役兼監察山崎烝が重傷(後紀州湾沖にて死亡)、同吉村貫一郎が行方不明(後に大坂の南部藩藩邸で自害)となった。
旧幕府軍は淀藩主(京都市伏見区)稲葉正邦(慶喜の側近の一人で現職の老中)を頼って、淀城に入り建て直しをはかろうとした。しかし淀藩は新政府と戦う意思がなく、城門を固く閉じ旧幕府軍の入城を拒んだ。このため旧幕府方は15,000人の兵力を擁しながら緒戦にして5,000人の新政府軍に敗れた。翌4日も戦闘が続き、5日になると明治天皇が仁和寺宮嘉彰親王に錦旗を与え(岩倉具視が偽造したという説もある)、新政府軍が官軍となる。これにより日和見を決めていた鳥取藩、山崎にいた津藩兵(旧幕府軍先鋒)などの諸藩が新政府軍に付いた。このため、旧幕府軍の劣勢は決定的になった。
8日、開戦に積極的で無かったとされる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍の敗戦が決定的となり、7日には慶喜に対して追討令が出た報を聞くと、その夜僅かな側近及び老中・板倉勝静、同・酒井忠惇、会津藩主・松平容保・桑名藩主・松平定敬と共に密かに城を脱し、大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に退却した。旧幕府軍の総大将の徳川慶喜の撤退と、新政府軍の砲兵力、新政府軍の優勢により多くの藩が旧幕府軍を見限ったことで、旧幕府軍の全面敗北となった。以後、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続く。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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